「自由に生きたい」の違和感

人間だれしも「自由に働き、自由に生きたいか?」と聞かれれば、そりゃそうだよねとなると思います。好きな時に働けるのであれば、朝の満員電車に乗る必要もありません。仕事疲れでまた満員電車に乗る必要もありません。家族やこども、知人との時間も空いた時間での対応ではなく、プロアクティブかつ健全にスケジュールに組み込むことも可能といえば可能です。起業すればスキル次第ではやりたいことだけを仕事にすることができます。

それに、悩みの8割は人間関係といわれるように職場のストレスでありがちな不条理な上司はいません。もちろん不条理な取引先も、この人とは仕事はしたくないなと思えば、契約しなければよいわけですし、契約後にモラルを著しく超える場合については、見極めが重要ですが断ってしまうことができるでしょう。企業勤めだと自分の判断で会社の売上を消滅させることは流石に厳しく一存では決められません。そのため自由に働き、自由に生きるとはそれらの視点においてはメリットがあります。

僕自身も自由に生きたいという思いがあったので、起業して今に至り、その観点においては好きなことをやりながら自由のメリットを享受できています。一方で前々からこの「自由に生きる」という言葉はなんとなく言葉に出すのがどうなのかなとモヤっとした感じがありました。コロナは大惨事ですが一方で物事を改めて考えるにはよいきっかけです。そこでこの「自由に生きる」についても時折この違和感に対して考えていました。そこで一つの自分なりの結論がでたのでアウトプットしたいと思います。

まず、率直に「自由に生きる」とは、ちゃんとコンセンサスがとれていないと見方によってはともすれば「自分勝手に生きる」という言葉と混同してしまうと思いました。そこで改めて考えた場合に、まず大前提として、自由とは人に迷惑をかけない範囲で自由に生きるということ、これは昔小学校か中学校で教わったなぁと改めて思い出しました。自由に生きたいからと、家族がいるのに家計が火の車ではもはやそれは自由ではなく自分勝手(のフェーズ)といえるでしょう。これまたよくいわれる話ですが、自由と責任はセットということ。これも当然ですね。

つまり、自由に生きたいけれど、責任は負いたくない、あるいはリスクは負いたくないという人は、結果的に「自由に生きる」というチャレンジはしないでしょう。このあたりは時折耳にするけれど、当たり前すぎてその時々はそりゃそうだよねでおわり、かえって頭に残らない類の言葉なのかなと思います。いずれにしても、自由に生きると自分勝手に生きるの違いには、「他人に迷惑をかけていないこと」、「責任が伴うこと」この2つの大前提の有無といえます。

次に、個人的に(=僕自身の場合について)わかったこととして、一つ目に「自由」の定義が何かと考えた場合に、僕にとっては「選択の自由」でした。そこをもっと突き詰めて考えると言葉のニュアンスとして腹落ちしたのは僕にとっての自由に生きるとは「強制されないこと」、もっというと、不条理や同調圧力、不要不急、非論理的で感情的にもNGといった、「真っ当な理由がなく、かつ自分がそれを求めていないこと」に対して強制されない生き方、それが僕にとっての自由な生き方だと36歳の今の時点での暫定結論です。

整理すると僕にとっての自由に生きるとは次のことです。

・他人に迷惑をかけず、かつ責任が伴う前提を理解した上で、
・「真っ当な理由がなく、かつ自分がそれを求めていない」場合にはNoといえる生き方。

そう考えると自由に働き、自由に生きるということは、ボトムレベルのミニマム水準として、最終意思決定権が自分にあり、かつ生計を立てる力、ざっくり言えば「稼ぐ力」がないと成立しないことがわかります。最終的な意思決定権が自分にない場合、当然に自分がNoといってもNoとならない場合があります。つまり形として依存関係、主従関係のうち「従」に自分が位置する環境では成立しません。そして、稼ぐ力がないと家族に迷惑をかける。稼げない代償(責任)として生活が成り立たない。稼ぐ力がないので背には腹は代えられず、仕事を選べず、不条理等も我慢を余儀なくされる(方向に流される)。資本主義社会の怖さですね。

また稼ぐ力はあくまで前提であり、「他人に迷惑をかけない」ことに対して人間の器が試されるといえます。その意味するところは、法律を犯さないことは当たり前として、例えば起業したときは得てしてお金がないものです。そのため家族が大なり小なり犠牲になるケースは少なくありません。一方で経営が比較的安定してきても仕事は続き、会社勤めの時よりも業務範囲は広く、また会社勤めの特権である終身雇用もないため(経団連会長や豊田章男さんが言及するくらいですから、崩壊のカウントダウンは始まっていると思いますが…)得てして仕事をしてしまう、また好きだからこそ仕事をしてしまうというケースもあるでしょう。その場合に家族との時間はまた大なり小なり影響を与えます。そう考えると僕の場合は、家族との時間において自分が満足いくレベルまで両立できて初めて「自由に働き、自由に生きている」といえるのかなと思いました。僕のしばらくの人生の課題の一つはそこですね。小さな子供が二人いるので、妻あっての今があるなとしみじみ感謝すると同時に、家族の時間を増やすことが僕の課題といえます。

さて、もう二つ僕にとっての自由が何かわかりました。それは「学習の自由」と「表現の自由」です。僕にとって楽しいワクワクする時間のひとつとして本屋にいる時間があります。週4回位本屋にきますが、日々入れ替わり、新しい様々な本との出会いがワクワクして、本を読めば必ず何かしらをそこから学べる「本の価値」に魅了されています。それくらい何かを学ぶことが好きで、定型業務以外は基本なんでも自分でやってみたいという性格です。そのため、例えば仕事で外注してもいいことでも、基本的に単調な作業系以外は、自分で学習してやることが多いです。それは単に好きだからであり、趣味といえます。また、もうひとつの理由として、二つ目の「表現の自由」にかかわるのですが、学習が表現の幅を広げるからです。学習による成長の喜びと表現の幅の広がりは自由に生きる上での僕の重要な要素といえます。

ちなみにですが、時折、専門性や費用対効果の観点から「外注 or 内製」の議論、要は「餅は餅屋」の発想を取り入れるか否かの議論がありますよね。餅は餅屋発想は極めて妥当な視点ですが、あくまで目的が何か?に左右され、妥当な考え方の一つでしかありません。僕のこの文章のコンテクストにおいては、単純にフットサルが好きと同じ原理であり、単に興味があることは自分でやってみることが純粋に好きだからです。フットサルを専門性や費用対効果の視点で考えもしないですし、そんな議論でぶつかっているのを傍からみると、お互いが相手の文脈理解しないで一方的に言い合い、相手の立場でどちらがベターな選択肢かを建設的に議論する視点に欠けもったいないなぁと思います。